Column 3 荻窪名所探訪
与謝野寛・晶子旧居跡
JR荻窪駅を南に歩き、環状八号線から西へそれると、南荻窪中央公園があります。公園の入り口に大理石の碑があり、「歌はどうして作る/じっと観/じっと愛し/じっと抱きしめて作る/何を/「真実を」(「歌はどうして作る」より・与謝野晶子)と掘られています。南荻窪中央公園は、かつて与謝野寛(号・鉄幹)・晶子の住居があった場所に作られているのです。
与謝野晶子(1878-1942)は、大坂の老舗和菓子屋の三女として生まれました。少女のころから、尾崎紅葉・幸田露伴・樋口一葉らの小説を読み、堺女学校(現・大阪府立泉陽高校)に入ると『源氏物語』を読むなど古典に親しみました。
文学会に参加したり、店番をしながら和歌を投稿するなどしていましたが、明治33年(1900)に開催された歌会で、歌人の与謝野鉄幹と知り合いました。鉄幹が創刊した『明星』に短歌を発表。東京に移り住み、歌集『みだれ髪』を発表します。
明治37年(1904)には、日露戦争で旅順に出征していた弟への思いを詠った『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表しました。1912年にはパリに渡り、イギリス、ドイツ、オランダなどを訪れます。帰国後、『巴里より』(鉄幹と共著)で、女性の教育の自由を説きました。大正10年(1921)には、鉄幹らと共に「文化学院」を創設。日本初の男女共学を成立させました。
大正12年(1923)に発生した関東大震災での体験から住居を郊外へ移すことにし、昭和2年(1927)に、当時・麹町区富士見町から、現在南荻窪中央公園がある場所へ引っ越しました。友人たちから贈られた庭木をはじめ多種の花や木を植え、また、当時の荻窪は、一面に田んぼが広がり、草花や、稲や、水のにおいが立ちこめる武蔵野の地だったそうです。
荻窪に移転した時点で与謝野晶子は『新訳源氏物語』を出していました。その『新訳源氏物語』の改稿版を計画中でしたが、ほぼ完成していた原稿が関東大震災により焼失してしまいました。晶子は、再び『源氏物語』に取り組み、昭和14年(1939)に念願の『新新訳源氏物語』を完成させます。
晶子と寛には成長した子どもは十一人いましたが、寛亡きあとも、晶子は子どもの成長を見守りながら荻窪の地で過ごし、昭和17年(1942)に永眠しました。
南荻窪中央公園(与謝野寛・晶子旧居跡)
住所:東京都杉並区南荻窪4-3-22